明日浅香山のA3病棟にいく

明日浅香山病院のA3病棟にいく。病棟まできちんと上がるのは久しぶりだ。データ分析させてもらっていた学生が成果を発表に行くからだ。歳かな、いろいろ思い出す。

「なんでそんなことすんの!」と厳しい愛のムチと

「こうやるんやで」とか、「~さん、もう遅いから寝ませんか」とかの母のような優しい声

「なんか、私またやってしまった、ダメやなあ」と誰も見ていないところでのひとり反省会は数知れず。

そして、誰も掃除しないところを誰も見ていないときにいつも掃除していた。

介護技術はピカ一。誰も一人ではできない難しい患者さんの体位交換も安定してひとりでできる。

人に迷惑や心配かけることを何より嫌い、孤独と向き合うことを課していたようにも思う。

でも、会いたいと素直にいってくれた、最期に。

彼女と私の出逢った場所に私は明日行く。

本当に、ここは原点。

頑固さの果てに見える景色

最近何人かの人たちに言われるのが「なんでブレないのですか?」

それを聞いてくる人を思わず見つめて、「どっちがだよ」と思う。私のまわりは明確な目的(ミッションと言って良いだろう)を持って動いている人が何人かいる。ある意味頑固者である。その勢いは派手ではないが、ちょっとのことでは全く動かない岩のように静かで迫力がある。良さげなことを言っている人は多いが、ミッションを明確に持っている人は少ない。ミッションを手段と間違えている人もいる。例えば、この前もある社協の人と話をしていた時に、ある包括のリーダーが消極的だという話になった。「あの人、何がしたいんでしょうね、目的とかないのですか。」というと、「いえいえ、あの人もきちんと目的持ってますよ!」と興奮していうので、どんな目的かと思ってきいてみた。すると「高齢者の方々との相互作用を大事にしているのです」という答えが返ってきた。興奮していうことか、聞いて損したと思うのはこういう時だ。目的が何かもわかってない人がいかにも福祉を回しています的なポジションにいるので全く困ったことだ。だからいつまでも福祉は(医療もか)自己満足の世界だと言われるのである。ベクトルが自分たちに向いている。良いことしている自分、困った人のために働いている自分、酔いしれているのか。おめでたい。そして最後は「難しい問題なんです。」といってしまう図々しさ。難しくしているのは自分たちなのに気づかない。同じことは認知症について一生懸命やっている人たちの間でもよくある。「ご本人の気持ちを大事にしています」。ちがうって、それは手段(目標)であって目的ではない。なんでそのエネルギーをきちんと生産的な方向にもっていかないのか。目的と目標を混同している人が多い。目的はここではミッションとしているが、自分が見たい景色である。目標は今現在見えているものである。多くの人がいま見えていることや、やることの内容に重点をおいてしまっているので、誰それと何それしたということで満足してやったような気になっている。医療系、福祉系に多いようにも思う。というか、強迫的に忙しさを前面に出してくるのがなんとなく許される業種だからか。自分が見たい景色をはっきりとイメージする。ぼんやりではいけない。抽象的な文言でも明確なイメージを持てるようにする。大体自分のことで精いっぱいで、状況に不満ばかりいって人への感謝を忘れるような人が、他人の幸せを祈ってそこに自分が関わろうとできるのか。ケアを舐めてる。ミッションを持つべきだ、それがはっきりしたら、忙しさがあったって、人間関係がイマイチであったって、全く意に介さない。明確な目的に向かって走るだけなので、無駄に迷うことも、無駄に不満をいうこともない。そして目的に合っているかだけで行動がきまるので、そのやり方は非常に柔軟である、現に私の周りにいるミッションを持っている頑固者はそこだけは頑固だが、非常に柔軟性がある人ばかりだ。年齢は関係ない。みんな60、70、80もうすぐ90の友人もいる。この友人たちは若い時から明確なミッションがあるのだ。最高にクール。目先の手段ややることの内容に目がいっている内は見えない景色である。ミッションを明確にするのは簡単ではないが、それができたら、強烈に鮮明に物事が見えてくる。全くアナザーワールドである。これがいつまでも見れない人は、かわいそうだ。

なぜ認知症という病気があるのか

今は認知症ケアが専門だという看板を掲げているので、いろんな人との交流がある。家族介護者の方、認知症だと診断された人、訪問事業、施設ケア、医療機関、研究者、企業など多岐にわたる。そこで共通のつぶやきがある。

なんで認知症という病気があるのでしょうか

なんでインフルエンザがあるのでしょうか、という問いと全く同じく、答えはわからない。脳血管性の認知症であれば血管病変があるからで、血管病変を起こす病態は~だから●●したらよいということも言えるが、おそらくそういうことではない。ただ、このタイミングで認知症という問題が大きくなった(というか、微妙に今までのやり方の拙さから大きくならざるを得なくなった)からこういうつぶやきが出てくるのだと思うが、なんでなのかという問いを少し真面目に考えた。

今だからこんな大きな問題だが、昔から認知症の人はいた。ボケ老人と言われてなんとなく暮らしの中にいて表にでることもなく終わっていただろう。しかし個別にはまちがいなくいろんなドラマがあっただろう。有吉佐和子の「恍惚の人」では、この「ボケ老人」は、全く意図せず家庭と自分自身を破滅の道に追い込み、その後、ラストシーンは他人であるお嫁さんと心が通うという話だった。ある意味社会の冷たさと優しさを反映しているように思えた。そう考えると、この40年以上前のドラマは、その後の時代の私たちが自分中心に生きようとすることへの警鐘と、まだ残っている人とのつながりや優しさを消えないようにしようということでの認知症というものの必然性を予見していたように思える。だから地域包括ケアだの、自分らしく生きるだのということにつながる。現実的には医療費の抑制からきた介護保険、地域包括ケアでもあるけど、まあいいや。自分のことばっかり考えてない?もう一回目の前の人をしっかり見てみようということを認知症の人を通して学んでいる気がする。何をのん気なことを、当事者は大変なんだと怒られそうだが、そう思えて仕方ない。いろんな勉強会や研修やイベントに行ったところで正解は見当たらない。ある人からいただいた言葉だが、その時その時の最適解は離れたところにはない。つまり、最適解はその人が生きているところにあるものだ。もう一度目の前の人を見つめてほしい、そういうことを多くの人に知ってほしくて、認知症という病気があるように思えた。

つながり

月に1回の子いるかの会に参加するため山陽電車で高砂に向かう。 車窓からの海は今日も穏やかで、ヨットがいくつもある。ヨットはいくらするのかと下世話なことを考えながら、明石海峡大橋の向こうの淡路島をみる。義理の両親がいるところだ。昨日も義母が作って仕事で立ち寄った義父に持たせてくれたロールキャベツを食べたなと思い出す。料理上手な義母の味は本当に美味しい。これを作るときに私のことを考えてくれたのだと思うと、ホッとした気持ちになる。いろんな人が自分のことを少しずつ考えていてくれることが、当然ではないんだと思う。今から行く子いるかも、別に私を待っててくれるわけではないけれど、あのみんなで集う数時間の楽しい雰囲気の中にいる1人としては認識されているだろう。とてもそれが有難いと思える。 20年前はこんなんじゃなかったなと思う。自分1人で生きていけると思ってたなあ。今以上に生意気極まりないと思う。 この間に自分の能力が絶対的に足りないことを実感してきた。ひとりでは何もできないことを知った。患者さんからは、認知症っていわれた気持ちがわかるのかといわれ、家族さんからも、どうせこの会話がおわれば済むと思ってるんでしょう、しょせん大学の研究者なんて腰掛けだといわれ、本当にそうだなと思い、腰掛けだからできることをしっかりやろうときめて博士課程に行き始めて10年になる。 自分にできないことを知ってるから、人に頼ることができる。 いま、私がイキがっていた時代の学生たちを目の前にして、昔の自分をみているようにも思う。あー、人材育成って時間がかかるなと。せっかちな私はそういうところは昔とかわってないな。まだ自分も発展途上のくせに人を導く役割を持つので始末がわるい。いつまでも修行が続いてる気がして、時々投げ出したくもなるが、車窓からの海をみて、たくさんの人たちが少しだけ期待してくれていることを思い出した。

「認知症」について ADI後の明快なこたえ

世間で言われている変性疾患の認知症は脳の器質性の障害である(器質性というと血管性もあるが、ここでは変性疾患について扱う。器質性とは「症状や疾患が臓器・組織の形態的異常にもとづいて生じている状態-コトバンクより」のこと、この場合、脳の一部が変性しているということ、症状が起こる実態があるということ)。しかし、知り合いの先生は、親の介護を十分されて、しかも認知症の勉強を沢山している非常にインテリジェンスの高い人だが、認知症は社会の病気だという。社会が病気だということは、その構成員である私たちも病気だということである。それはどんなことかとイメージがつかないでいた。認知症は脳の病気なのに。

先日ADIが京都であったので、参加した。そこで認知症の本人のワークショップに参加してみた。ご本人が言いたいことはよくわかり、日本という社会は冷たいけど優しいところもあるなと思ったところであった。しかし、内容は2年前にきいたときと変わらなかった。実質的には生活面では大した進歩はしていないんだなと反省した。1つだけ大きく変わったことがあった。カメラの数である。メディアもさることながら、聴衆のカメラがアイドルみたいにすごかった。あれは引いた。秋葉原でみた光景と被る。確かに一種の社会の病気かもしれない。

私は一応医系の研究者の端くれなので、人文的なものも扱うが、医学的思考がしみついている。看護師と保健師のライセンスを持つ以上、疾患をまるで無視して考えられない。その上で「認知症」というものを考えたとき、脳の病気なので、国際的な診断基準に基づいて判断する。そうすると、この人本当に認知症かなという人はたくさんいる。何しろこの認知症の病気はびっくりするくらい病理診断と臨床診断が異なるのだ。こんな病気は他ではちょっと考えられない。胃癌といえば胃癌なのだ。認知症疾患はそうとは限らない。特に早期発見早期対応を掲げているが、若年で早期であればあるほど、うつや発達障害との鑑別は難しい。私は認知症疾患の人を沢山見てきたが、中等度、重度の人が多かった。それでも、スタッフと症状をみて、これはアルツハイマーではないなということは何度もあった。医師は非常に能力が高くても、とにかく画像だけで判断することは難しい場合が多いので、臨床症状で判断するしかなかった。診断ガイドラインでもそれが重要になっているが、そうやって改めて診断が変わることもあった。そのおかげで生活上の困難さを打開する作戦変更で効果があったことは数知れず経験した。また、認知症でもなんでもない、発達障害だった人もいた。若年で初期、軽度の場合だとなおさら誤診は多いだろう。その中でも「認知症」と言われたら、認知症のように生きるしかないのか?ということをADIで感じた。明らかに認知症じゃないなという人も居たが、そんなことは大した問題ではないのだろう。「認知症」と言われたことが問題なのだ。認知症は社会の病気だから。でも大丈夫、ADIには優しいひとたちがたくさんいるのだ。家に帰ったらいるかどうか知らないけど、心の中にいるから大丈夫だ、ひとりじゃないよっていう言葉を心の支えにして日々の生活を送れるはず、進行して状況理解が出来なくならない限りは。

認知症にしても、社会的引きこもりにしてもなど、本当にネガティブなものをリアルタイムで知りたくても、それにはリーチできない。それこそ実践や行政的に関わらないと見えなかったりする。11年間、認知症治療病棟にいて、本当にこの人が何かのサービスに引っかかってここに来てよかったという人にたくさんであった。そうでなければ混乱したまま命の保障もない事態になっていたかもしれない。そういう人の生活を再構築するには、疾患特性抜きには語れない。何が問題になっているのか、脳の病気であることから症状を見極める。実際に診断が違ったとしても、臨床症状の特徴を探る。でも診断がちがうとわかったら、同じ症状でも対応が違ってくるので、できる限り診断は重要だ。認知症は脳の病気なのである。

生活とは、高度な認知機能が複雑に組み合わさって成り立っている。進行とともに、心の支えだけではやはり難しくなるのだ。そんなこと言わなくてもいいじゃんという意見もあるだろう。しかし、認知症の人は自分で主張できる人だけではない、言葉を失っている人もいるのだ。そこは無視できない。だからその人たちのためにも、認知症について、自分で語れる人だけの話だけを聞いて支援体制を作るのはよくない。しかもその人が認知症じゃなかったら、病気という枠組みでの当事者性が揺らぐ。ADIにも行けない人、ADIのことも理解できない人、ADIを知らない人、本当に聞きたいのは、声を上げられる人とそうじゃない人、両方だ。何が生活を、人生をうまくいかなくしているのか。認知症は脳の病気なので、私はそれを追究していきたい。

一方で、認知症は社会の病気でもあるので、アルツハイマーでも前頭側頭型でもなんでも「認知症」ということによっておこる社会的な不具合もあるだろう(仕事を実質クビになったとか)。脳の病気が社会の病気になった原因は今となってはわからないが、仕事の例でいうと、クビになった理由は、仕事に支障がでるから、なぜ支障がでるのかと言えば、できないことがあるから。出来ないことはなぜできないのか、そこに対応できる薬剤治療、非薬物治療はあるのか、これからどうなっていくのか、今のままの仕事ができるのか、少し休めばできるようになるのか、やはり徐々にうまくいかなくなるのか、そういう細かいことを知るにつけ、疾患特性などの知識と経験がいる。社会の病気のほうにアプローチしている人は本当に多いことはADIでわかった。心強いに違いない。病気だけからその人を捉えるわけではなく、一人ひとりの生活の多様性を尊重することが大事で、そのためには病気の人本人も一緒に努力をしないといけない。認知症だけでなくすべての病気でそうである。しかし、私は医療職のライセンスをもって仕事するので、やはり脳の病気からのアプローチや生活に影響を与える部分を減らしていく努力をしないといけない。

看護の専門性 2

昨年末に専門の国際学会に参加した。どちらかというと医学系であとはOT, PSW,CPといったいわゆる多職種が参加したものだ。看護もいないわけではないが少ない。

非薬物療法は看護の専売特許?のようなことを聞くが、断じてちがう。こういう学会に参加するとOTやCPの人たちの非薬物療法の研究はすごくて、研究のデザインも考察もとても緻密だし、なによりきちんと文献検討をしている。非薬物療法の開発は看護の専売特許ではない。認知症は在宅ケアを基盤としているので、それを一緒に考えても、やはり看護が非薬物療法を発展させているわけではない。

かといって薬物療法は看護の範疇ではないのかといえばそうでもない。日常生活上の服薬コンプライアンス、薬物の効果のモニタリングなど看護師がやっておけばよいことも多い。

では看護師はなにするものなのか。前回は熟練した介護士とはちがうなにか看護に特化したものはないのかと書いた。熟練した介護士と一緒に働くのはエキサイティングな体験だ。看護師は彼らに頼りにされないといけない。

看護を教えてる側からすると、徹底的な生活からの視点が看護の専門性と思う、そして、そこに疾患、治療、環境、先の見通し、その人の立場での視点、これまでの経過を総合したうえで、今何が起こってて、この先の生活の水先案内人のような選択肢をその人が選べるような環境をつくり、選んだあとは(選ぶ時も多少背中を押せるといいが)、チームでその背中を押していく雰囲気をつくるのが看護なんだろうと、他職種の専門性にふれ、思う。

病気は人が創り出した概念だ。それにわざわざあてはめて人を考えるなら、その人にとって病気の弊害を埋め合わせて相殺するような恩恵がないといけないと強く思う。その役割を担うのが看護師であり、看護師でないといけない。

 

 

看護の専門性 1

親しい友人でかなり保健医療業界に精通して、すごい成果をあげている人から昔受けた指摘がずっと胸の中にある。

看護と介護って何がちがうの?看護は見る視点が違ってて、病気のこと知ってるっていうけど、やってることは介護の人のほうが上手いし優しいし

すぐに反論できない自分がいた。看護師の定義は保助看法によると、診療の補助と療養上の世話。診療の補助なら医者、医者の見習いとかがたくさんいればいいのではないか、療養上の世話なら熟練した介護士は患者に余計なことをいうこともない。

熟練した介護士は病気のこともよくわかって介助している。本当にすごい。病気のことわかってなくても、例えば現場でBPSDの激しい人に安全にうまく食事を食べてもらえるほうが、アレコレ病態を並べて、だから難しいとかいって患者に拒否されて無愛想に患者に向いてる看護師のほうが迷惑だ。看護師は系統的に疾患の学習してるからといっても、本当に勉強したの?という看護師も多い。ここのところのトピックで言えば、国家試験が例年より難しかったということで厚労省に悪態つくような有様。それくらいで文句いうようでは、医療職なんて無理だなと思う。レベルも民度もひくい。

同業者批判をしているのではない。看護の専門性はなんなのかを明確に、熟練した介護士を含めてたとしても明言したいだけである。

良い人と悪い人

感情を出して人にぶつけてくる人は愛すべき、というかわかりやすい。自分が感情的だとしっている。しかし、場合によっては、自分が感情的に人を攻撃するのを妥当だと思っている場合がある。あまりに感情的で知性とか品性とかどうなのかと思う。
一番面倒なのが、自分は冷静ぶってるけど、感情丸出しな人。自覚ないのでこまる。でもこれは慣れれば大丈夫だし、片方が冷静だと丸出しの人は大体ロジックが壊れているので、あまり建設的議論にならない。まあ、この冷静な片方の態度が火に油を注ぐ結果になることは多いが、、、。
そして、一番関わりたくないのが、宮田先生 のFBにもあったけど、いい人風だけど、実は悪い人。裏で操作的である。これはできるだけ避けたいけど、なにせ多すぎて避けられない。いい人風なのでどこが悪いのかわからないのだ。自分に危害があって初めてその人が悪かったのかと気づく。悪い人というのが、刑事的にあらかさまに悪かったりするならわかりやすくてよいんだけど、だいたい周りの人の優しさとか関わりたくないこととかの狭間でセーフって感じが多い。ちなみに私はまだ悪い人からなにかされたとかは認識の範疇にはない。陰口はあるのかもしれないが、陰口なのでストレスコーピングの1つだろう。ただ、悪い人に遭遇してしまった人にはよく会うのとそのエピソードをきく。その人そんな人なの?と良い人と風なのでちょっとびっくりする。でもそれも所詮自分は体験していないのでストレスコーピングの範囲内だ。悪い人に遭遇してしまった人にエンパシーを感じるがそれと自分の判断は別である。科学者たるもの、噂は所詮噂と軽く流したい。

しかしちょっと遠目に自分をみると、悪いかどうかは上記以外のあいまいな場合、いつも主観的だ。こちらがもう本当になんなのー⤴︎と思う人でも、他方から見たらとっても良い人かもしれない。そう思うと、良い人悪い人ってなんかなと思う。そう思うと、どれだけの人を巻き込んでその組織、その領域において、生産的な動きができるかっていうようなことを道しるべとしていくしかない、ような気がする。はあ、私も気をつけよう。

熱心なひとびととの隔たり 

そればっかり真剣に考えていたら本当に機会ってくるんだと思う。私がやりたいことをかなり一緒に考えてくれる頼もしい仲間が広がってきた。ありがたいことだ。

でもこの仲間がいることで、見えるものが見えなくなってしまうことがある。誰だって自分と同じような情熱を持った仲間と一緒にいると楽しくて心地良い。しかしそれは、それ以外の人と相容れないことを助長している。同じ情熱を持っていない人を無意識に排除する気持ちが出て来てしまうように思う。趣味とか、サークルとかそういうことなら別にそれでよいだろうが、地域包括ケアを目指す場合はそういう気持ちがあるとまずい。

認知症ケアを一つの手段として地域包括ケアの発展を心から願い、実現したいと考えてきた。熱心な仲間もたくさんでき、力をもらって突っ走っている。でも、ふと気づくと、「認知症とかできれば関わりたくない」と市民から言われ、「認知症は興味ないんです。」とナースから言われる。ナースは患者が誰でもベストを尽くさないといけない、患者を選ぶな!と叫びたいが、特に身体疾患の治療が目的の場合、認知症の症状があるだけで、なんでもない処置ができないということが多々あり、認知症は患者にもスタッフにも治療の難しさをもたらすものである。気持ちは痛いほどわかる。

はっきりいって「ふつうの人は認知症なんて興味ない、できれば関わりたくない」のである。誤解のないように言うが、病気とはそういうものである。しかし、認知症の場合はどういうことかスティグマの要素を持ち合わせているため余計そうである。日々認知症のことばかり考えている私たちとは、まったく気持ちに隔たりがある。

認知症を理解してほしくて様々な研修やイベントがある。しかし、認知症という病気が知識としてインプットされると、ああ、そうかと納得してくれる人もいるが、余計に関わりたくないと思ってしまう人も少なくない。私たちが、認知症を知ろう、理解して優しくしましょうと息巻くだけ、皮肉にも普通の人との壁が大きくなっていくように思う。認知症を必要以上に特別視させてしまっているように思う。

地域包括ケアシステムの中で、認知症が病気の一つでさりげなく日常生活、地域生活の中に溶け込む存在であるためにはどうしたらいいのか。主な認知症疾患の不可逆性を隠すわけでもない、楽観視できるとも言いたくない。進行して生活が立ち行かなくなった人を見てきて、夢見るようなことばかり言えない。かといって、適切なサポートがあれば恐怖で震えてしまうようなことにはならない。そうすると、やはり進行期でも穏やかに過ごせて、穏やかに思い描いたような死に方に近い形で死ぬことも可能であるというエビデンス(広い意味での)の蓄積が必要だと思う。

エビデンスを蓄積している間に何をすればいいのか、それはまだわからない。認知症に気が向いていない人にも、特に脅威を与えることもないということを保障しつつ、ちょっと関わるときにはこうしたらうまくいくということを、認知症に興味のない人の立場に立って実感してもらう戦略が必要である。あらゆる統計をみると、認知症にまったく関わらなくてすむという人はおそらくいないだろう。今は関係ないので興味もないという人をどう巻き込むのか、地域包括ケアを実現できるかの正念場だと思う。

 

 

ニッチの中の本質 智の真空地帯を進む

智の真空地帯を突き進む活動は、文字通り真空なので苦しいが、なぜかとても気持ちがいい。私の研究活動そのものである。

医療業界でいうと、創薬にはかなりの研究費が投じられているが、私たちの業界はそれと比較すると、え?というほど少額でやりくりしている。まあ、実験系ではないので機器なんかにかける費用は少ない。しかし、大規模な疫学研究でもなく、生身の人間の行動だの気持ちだのそういうものをデータとして収集するのは非常にデリケートであり人手も必要であるが、そのあたりはどうも理解されない。

世界規模でみると、名だたる雑誌に載るプライマリーリサーチにはとにかく数が必要だ。観察研究の場合、サンプル数は少なくとも3桁は必要であり、最近は4桁5桁が主流である。介入研究でも3桁が当然だったりする。そうなると当然莫大な費用が必要であるが、アメリカや最近は中国などでも大規模研究費が看護研究にも投じられている。

さらに研究デザインも未だにRCTが一番のような雰囲気がある。別に言い訳するわけではないが、看護ケアのRCTは結構難しい。世の中のエビデンスという言葉はかなり限局的なイメージを持って実践にもアカデミーにも浸透しているので、よくある研究デザインのヒエラルキーの中では、RCTが良いということになるのだろう。最近はそれとは別の次元で質的研究の存在感が医学の中でも強まっているが、まだIFの高い雑誌の中ではエビデンスレベルの高さ云々の研究が主流である。質的研究であっても、ほとんど30人、50人、といった規模でのサンプリングになっている。ここでも大きな費用が発生する。

日本の微々たる研究費で何ができるのか、まともにやっていても質でも量でもサンプル数では欧米には勝てない。勝ち負けではないが、やっぱり自分たちの実践や、そんな視点からですか!というような国内外の研究者が唸るようなものを発信していきたい。それには隙間を埋めるようなテーマ設定が大事である。つまりニッチを探るのである。こういうとかなりオリジナリティが必要であるが、これは大して難しくはない。きちんと臨床実践をみて、先行研究と結び付ければよいのである。注意深くやっていくと隙間が必ずある。それがニッチである。でもニッチは実は隙間でもなんでもなく、実践の本質をついているように思う。それは現場マターでリサーチクエスチョンを出しているからである。このあたりは実際の研究成果を出してから言わないとな。だから、早く研究を世に出さないと。従来の典型的なデザインとは少し違うので、苦労はするけど。