熱心なひとびととの隔たり 

そればっかり真剣に考えていたら本当に機会ってくるんだと思う。私がやりたいことをかなり一緒に考えてくれる頼もしい仲間が広がってきた。ありがたいことだ。

でもこの仲間がいることで、見えるものが見えなくなってしまうことがある。誰だって自分と同じような情熱を持った仲間と一緒にいると楽しくて心地良い。しかしそれは、それ以外の人と相容れないことを助長している。同じ情熱を持っていない人を無意識に排除する気持ちが出て来てしまうように思う。趣味とか、サークルとかそういうことなら別にそれでよいだろうが、地域包括ケアを目指す場合はそういう気持ちがあるとまずい。

認知症ケアを一つの手段として地域包括ケアの発展を心から願い、実現したいと考えてきた。熱心な仲間もたくさんでき、力をもらって突っ走っている。でも、ふと気づくと、「認知症とかできれば関わりたくない」と市民から言われ、「認知症は興味ないんです。」とナースから言われる。ナースは患者が誰でもベストを尽くさないといけない、患者を選ぶな!と叫びたいが、特に身体疾患の治療が目的の場合、認知症の症状があるだけで、なんでもない処置ができないということが多々あり、認知症は患者にもスタッフにも治療の難しさをもたらすものである。気持ちは痛いほどわかる。

はっきりいって「ふつうの人は認知症なんて興味ない、できれば関わりたくない」のである。誤解のないように言うが、病気とはそういうものである。しかし、認知症の場合はどういうことかスティグマの要素を持ち合わせているため余計そうである。日々認知症のことばかり考えている私たちとは、まったく気持ちに隔たりがある。

認知症を理解してほしくて様々な研修やイベントがある。しかし、認知症という病気が知識としてインプットされると、ああ、そうかと納得してくれる人もいるが、余計に関わりたくないと思ってしまう人も少なくない。私たちが、認知症を知ろう、理解して優しくしましょうと息巻くだけ、皮肉にも普通の人との壁が大きくなっていくように思う。認知症を必要以上に特別視させてしまっているように思う。

地域包括ケアシステムの中で、認知症が病気の一つでさりげなく日常生活、地域生活の中に溶け込む存在であるためにはどうしたらいいのか。主な認知症疾患の不可逆性を隠すわけでもない、楽観視できるとも言いたくない。進行して生活が立ち行かなくなった人を見てきて、夢見るようなことばかり言えない。かといって、適切なサポートがあれば恐怖で震えてしまうようなことにはならない。そうすると、やはり進行期でも穏やかに過ごせて、穏やかに思い描いたような死に方に近い形で死ぬことも可能であるというエビデンス(広い意味での)の蓄積が必要だと思う。

エビデンスを蓄積している間に何をすればいいのか、それはまだわからない。認知症に気が向いていない人にも、特に脅威を与えることもないということを保障しつつ、ちょっと関わるときにはこうしたらうまくいくということを、認知症に興味のない人の立場に立って実感してもらう戦略が必要である。あらゆる統計をみると、認知症にまったく関わらなくてすむという人はおそらくいないだろう。今は関係ないので興味もないという人をどう巻き込むのか、地域包括ケアを実現できるかの正念場だと思う。

 

 

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