「認知症」について ADI後の明快なこたえ

世間で言われている変性疾患の認知症は脳の器質性の障害である(器質性というと血管性もあるが、ここでは変性疾患について扱う。器質性とは「症状や疾患が臓器・組織の形態的異常にもとづいて生じている状態-コトバンクより」のこと、この場合、脳の一部が変性しているということ、症状が起こる実態があるということ)。しかし、知り合いの先生は、親の介護を十分されて、しかも認知症の勉強を沢山している非常にインテリジェンスの高い人だが、認知症は社会の病気だという。社会が病気だということは、その構成員である私たちも病気だということである。それはどんなことかとイメージがつかないでいた。認知症は脳の病気なのに。

先日ADIが京都であったので、参加した。そこで認知症の本人のワークショップに参加してみた。ご本人が言いたいことはよくわかり、日本という社会は冷たいけど優しいところもあるなと思ったところであった。しかし、内容は2年前にきいたときと変わらなかった。実質的には生活面では大した進歩はしていないんだなと反省した。1つだけ大きく変わったことがあった。カメラの数である。メディアもさることながら、聴衆のカメラがアイドルみたいにすごかった。あれは引いた。秋葉原でみた光景と被る。確かに一種の社会の病気かもしれない。

私は一応医系の研究者の端くれなので、人文的なものも扱うが、医学的思考がしみついている。看護師と保健師のライセンスを持つ以上、疾患をまるで無視して考えられない。その上で「認知症」というものを考えたとき、脳の病気なので、国際的な診断基準に基づいて判断する。そうすると、この人本当に認知症かなという人はたくさんいる。何しろこの認知症の病気はびっくりするくらい病理診断と臨床診断が異なるのだ。こんな病気は他ではちょっと考えられない。胃癌といえば胃癌なのだ。認知症疾患はそうとは限らない。特に早期発見早期対応を掲げているが、若年で早期であればあるほど、うつや発達障害との鑑別は難しい。私は認知症疾患の人を沢山見てきたが、中等度、重度の人が多かった。それでも、スタッフと症状をみて、これはアルツハイマーではないなということは何度もあった。医師は非常に能力が高くても、とにかく画像だけで判断することは難しい場合が多いので、臨床症状で判断するしかなかった。診断ガイドラインでもそれが重要になっているが、そうやって改めて診断が変わることもあった。そのおかげで生活上の困難さを打開する作戦変更で効果があったことは数知れず経験した。また、認知症でもなんでもない、発達障害だった人もいた。若年で初期、軽度の場合だとなおさら誤診は多いだろう。その中でも「認知症」と言われたら、認知症のように生きるしかないのか?ということをADIで感じた。明らかに認知症じゃないなという人も居たが、そんなことは大した問題ではないのだろう。「認知症」と言われたことが問題なのだ。認知症は社会の病気だから。でも大丈夫、ADIには優しいひとたちがたくさんいるのだ。家に帰ったらいるかどうか知らないけど、心の中にいるから大丈夫だ、ひとりじゃないよっていう言葉を心の支えにして日々の生活を送れるはず、進行して状況理解が出来なくならない限りは。

認知症にしても、社会的引きこもりにしてもなど、本当にネガティブなものをリアルタイムで知りたくても、それにはリーチできない。それこそ実践や行政的に関わらないと見えなかったりする。11年間、認知症治療病棟にいて、本当にこの人が何かのサービスに引っかかってここに来てよかったという人にたくさんであった。そうでなければ混乱したまま命の保障もない事態になっていたかもしれない。そういう人の生活を再構築するには、疾患特性抜きには語れない。何が問題になっているのか、脳の病気であることから症状を見極める。実際に診断が違ったとしても、臨床症状の特徴を探る。でも診断がちがうとわかったら、同じ症状でも対応が違ってくるので、できる限り診断は重要だ。認知症は脳の病気なのである。

生活とは、高度な認知機能が複雑に組み合わさって成り立っている。進行とともに、心の支えだけではやはり難しくなるのだ。そんなこと言わなくてもいいじゃんという意見もあるだろう。しかし、認知症の人は自分で主張できる人だけではない、言葉を失っている人もいるのだ。そこは無視できない。だからその人たちのためにも、認知症について、自分で語れる人だけの話だけを聞いて支援体制を作るのはよくない。しかもその人が認知症じゃなかったら、病気という枠組みでの当事者性が揺らぐ。ADIにも行けない人、ADIのことも理解できない人、ADIを知らない人、本当に聞きたいのは、声を上げられる人とそうじゃない人、両方だ。何が生活を、人生をうまくいかなくしているのか。認知症は脳の病気なので、私はそれを追究していきたい。

一方で、認知症は社会の病気でもあるので、アルツハイマーでも前頭側頭型でもなんでも「認知症」ということによっておこる社会的な不具合もあるだろう(仕事を実質クビになったとか)。脳の病気が社会の病気になった原因は今となってはわからないが、仕事の例でいうと、クビになった理由は、仕事に支障がでるから、なぜ支障がでるのかと言えば、できないことがあるから。出来ないことはなぜできないのか、そこに対応できる薬剤治療、非薬物治療はあるのか、これからどうなっていくのか、今のままの仕事ができるのか、少し休めばできるようになるのか、やはり徐々にうまくいかなくなるのか、そういう細かいことを知るにつけ、疾患特性などの知識と経験がいる。社会の病気のほうにアプローチしている人は本当に多いことはADIでわかった。心強いに違いない。病気だけからその人を捉えるわけではなく、一人ひとりの生活の多様性を尊重することが大事で、そのためには病気の人本人も一緒に努力をしないといけない。認知症だけでなくすべての病気でそうである。しかし、私は医療職のライセンスをもって仕事するので、やはり脳の病気からのアプローチや生活に影響を与える部分を減らしていく努力をしないといけない。

「認知症」について ADI後の明快なこたえ」への1件のフィードバック

  1. 福井先生

    コメントありがとうございました!先生にそんな風に思っていただき、恐縮するとともに、頑張ろうと思えました。
    病気になったことは良くないことではありますが、その中で最大限より良くなるように、少しでも貢献したいと思います。こちらこそどうぞよろしくお願いいたします。

    山川みやえ

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