なぜ認知症という病気があるのか

今は認知症ケアが専門だという看板を掲げているので、いろんな人との交流がある。家族介護者の方、認知症だと診断された人、訪問事業、施設ケア、医療機関、研究者、企業など多岐にわたる。そこで共通のつぶやきがある。

なんで認知症という病気があるのでしょうか

なんでインフルエンザがあるのでしょうか、という問いと全く同じく、答えはわからない。脳血管性の認知症であれば血管病変があるからで、血管病変を起こす病態は~だから●●したらよいということも言えるが、おそらくそういうことではない。ただ、このタイミングで認知症という問題が大きくなった(というか、微妙に今までのやり方の拙さから大きくならざるを得なくなった)からこういうつぶやきが出てくるのだと思うが、なんでなのかという問いを少し真面目に考えた。

今だからこんな大きな問題だが、昔から認知症の人はいた。ボケ老人と言われてなんとなく暮らしの中にいて表にでることもなく終わっていただろう。しかし個別にはまちがいなくいろんなドラマがあっただろう。有吉佐和子の「恍惚の人」では、この「ボケ老人」は、全く意図せず家庭と自分自身を破滅の道に追い込み、その後、ラストシーンは他人であるお嫁さんと心が通うという話だった。ある意味社会の冷たさと優しさを反映しているように思えた。そう考えると、この40年以上前のドラマは、その後の時代の私たちが自分中心に生きようとすることへの警鐘と、まだ残っている人とのつながりや優しさを消えないようにしようということでの認知症というものの必然性を予見していたように思える。だから地域包括ケアだの、自分らしく生きるだのということにつながる。現実的には医療費の抑制からきた介護保険、地域包括ケアでもあるけど、まあいいや。自分のことばっかり考えてない?もう一回目の前の人をしっかり見てみようということを認知症の人を通して学んでいる気がする。何をのん気なことを、当事者は大変なんだと怒られそうだが、そう思えて仕方ない。いろんな勉強会や研修やイベントに行ったところで正解は見当たらない。ある人からいただいた言葉だが、その時その時の最適解は離れたところにはない。つまり、最適解はその人が生きているところにあるものだ。もう一度目の前の人を見つめてほしい、そういうことを多くの人に知ってほしくて、認知症という病気があるように思えた。

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