結晶化

必死に突き詰めれば、その内いろんな仕事が全部結晶化してくる。

尊敬する先生からそんな言葉をもらった。大分前の話だ。なんのこっちゃ、分からん。そのころは私は教育も研究もその他の雑用も全部やらないといけないことに苛立っていた。欧米の看護大学の研究者は実習がなくて良いなと思っていた。日本は便利屋みたいにあれもこれもしないといけない、不公平だと。研究は研究、教育は教育、分けるのも一緒にするのもどちらが良いかなんてここで結論づける気はない。ただ、両方やるシステムでその両方で成果を出せと言われる無茶な境遇であることは間違いない。手をかけたらそれだけ学生の変化がわかるので、教育もハマってしまい、研究はデータから言えることの解釈が、大事な大事な研究フィールドになんらかの信頼性をもって還元できるんだと思うと頑張らなくてはと思い、その間に、国際交流や種々コンサルなど、大小実にいろんな仕事をタコ足配線のようにしている。常に何かに追われているようにも思える。タコ足の仕事を尊敬する先生の助言の通り、一生懸命やってきた。

まさかのその日はやって来た。タコ足配線はいつしか一つの太い線になっていた。どれもつながるようにしか思えず、教育も研究も何もかもしなくてはいけないという不満は微塵もない。何もかもがつながり、一つの看護学という結晶が私の中に残った。そして全てが自分の言葉で説明できるようになっていった。きわめて柔軟な看護学へのぶれない信念ができた。1つの専門領域をひたすら深化できるように必死に突き詰めていろいろ考えてきた。それが本当にジェネラルなものとして広がっている。この感覚。これが結晶化するということだと確信した。

 

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どうしようもない違和感

信頼関係ができると丁寧にしなくてよいのか、はたまた丁寧に話すと信頼関係はできないのか。

仕事柄いろんな高齢者施設にいく。そこでしばらく過ごすと、どうしようもない違和感に苛まれることがしばしば。まちですれ違う高齢者ケア関係のスタッフが高齢者に話しかけている様子をみても感じる違和感。

若いスタッフ(高齢者に比べたら全員だが)がタメ口で対象の高齢者に話すのだ。それを聞いてると、どんなに素晴らしいケアをしていても台無しのような気になる。逆にケアが素晴らしいだけに、、、。いや、お友達トークで素晴らしいケアなんてないだろう。看護師だけでない、リハビリスタッフ、介護職、医師、管理者でさえそうである。

何度かいろんなところでタメ口である理由をきいてみたことがある。信頼関係ができてるし、長く入院、入所してるので関係性ができているし、相手もその方が気楽だしフレンドリーということなどなど。

まず、信頼関係ができているということが怪しい。向こうからきいたこともないし、そんなもの測れる術があるなら教えて欲しい。高齢者は礼節をわきまえている。特にお世話されて申し訳ないと思っているから、そりゃ、よくしてもらってるとか、ありがたいとかいうだろう。仲良いよねーとかスタッフにいわれたらそうだというだろう。ごくまれに家族みたいになっている場合にはもあるが、そうだとしてもこちらは専門職としての態度を考えないといけない。家族みたいでも家族では決してない。そんなに簡単に家族ができたらまずい。ケア以外にその人になんの責任も持てないのに家族なんて笑ってしまう。

タメ口のほうがフレンドリーというのもよくわからない。こっちがそう思ってる、そう思いたいだけのような気がする。車椅子を押すスタッフが、ある場所に停めて、「じゃあここで待っててね」と声をかけた。その患者は静かに頷いていた。患者がグラグラした足取りで一生懸命何か伝えている時に、孫みたいなスタッフが「うん、うん、そうだね」とピーピー声(大体多い)で相槌をうつ。病院、施設というのは相手にとっては完全アウェーなのだ。その人中心のケアなんて幻想であることを身にしみてわからなければいけない。入院契約、入所契約、通所契約である。在宅でもそうである。契約してケアをしてあげていると一ミリでも思ったらそこでたちまち上下関係が出来てしまう。

他の理由としては、認知症があるのでタメ口の方が相手がわかりやすいということだ。ナントカしていただきたくナントカおっしゃられていらっしゃいましたが、、云々というようなまわりくどいヘンな敬語を使えと言っているわけではない。普通に丁寧にすればよいのである。

悲しいことに、私が施設内、病院内をウロウロしているととても丁寧に話しかけてくれるのだ。敬語の使い方をしらないわけではない。一応先生という立場がそうさせるのか。どうして同じくらいの歳の私に敬語で遥かに歳上の患者さんにタメ口なのか、全く理解できず、日々フロアで繰り広げられるタメ口を聞くにつけ、どうしようもない違和感を持ってしまう。お友達トークですか、と。

信頼関係に関しては言葉の丁寧さは関係ないと思う。私がとても親しくしている人、家族の悩みすら言える人は長くつるんでいてもいつも敬語である。似たような年齢でも。でも誰よりも親しいと感じられる。大事なのは言葉が気軽だからとかではない。

これは難しいようで簡単な問題だが、切り込んでいくにはある意味難しい。そこに疑問を持っていないひと、つまり病識がない人(当然タメ口をつかっている専門職のこと)へのアプローチは思った以上に難しい。しかしやらなければ。高齢者ケアの基本でケア者の知性ならぬ品格が問われる。歳をとるのは尊いことだとみんなが思わなければいけない。歳をとると恥をかかされると思われるようでは断じていけないのだ。

 

 

Death road

我々は旅人であるこの世に生を受け土に還るまで永遠の一部を旅する

この前、お寺で死についての哲学カフェがあり参加した。外国では胃瘻の人や寝たきりはいないようだ。しかしここは日本で本人の意思があってもなくても、家族が本人の意思に多大な影響を与えたり、医療従事者の考え方がかなり影響を与えているという非常にウェットな文化がある。その中でこんなに選択肢の多い現在医学において、どの選択が正しいかなんて本当に分からない。それになんとなく死は上記の言葉(ブロークントレイルのロバート・デュバルのセリフ)のようにさほど大きなことではなく、鳥瞰図的にみると、少し印でもつけていた方が良いかなと思うようなささやかなものに見える。神聖であり、あらゆる選択は自己中心的であってもよいと思う。そこまで年をとれた者の特権のようなものだ。でも現実社会はそこで医療費のこととかを引き合いに出してくる。重要ではあるが、何か日常的で少し特別な儀式的な死というものが急にしょっぱく感じるのだ。旅の最後に、美味しいもの食べたいとか、あそこ行きたいとか、あの人に会いたいとか、家族のために一秒でも長生きしたいと思うとか、本人は思う存分好き勝手してもいいんじゃないかと思う。周りの家族はどう思うかはその後のことだ。でも少なくとも医療者は評価もしないで淡々と本人が選んだものをサポートするだけである。

I had a chance to talk about ‘death’ at a temple the other day. We have made many words about death, euthanasia, death with dignity, living will, natural death, peaceful death, etc. I always face a death of patient in the clinical settings. Between western culture and Japanese culture, way of thinking death and end of life is quite difference. I think that a death among people with non-cancer is not similar to it with cancer in terms of a life prediction. Physical functions in super aged people gradually decline. But we have many techniques to a prolong life expectancy, so we are always puzzled when we make decision in the end of life. In a sense, they  are privileged to choose many medical ways. Are the elderly people in the end of life puzzled truly? I have no idea because I have never had experience of the end of life. I’ve got no choice but to image their feeling in the end of life and it seems holy and selfish. We, nurses, cannot evaluate and have a opinion against the patient’s choice. We just support their rest of life after the decisions regardless of using tube feeding.

When talking about death in the temple, I remember a serif in an old movie. Death is very individual like traveling and we should accept all kinds of their own death road.

”We are all travelers in this world. From the sweet grass to the packing house, birth till death, we travel between the eternities.” Broken TrailRobert Duvall quoted

大いなる自由

外国の人からみたら不思議に思うかもしれない。お節介な日本の介護制度は財政的には崩壊しかかってるが、それなりに恩恵はある。現場はそのうち崩壊するかもしれないと気にしつつ、しかし目の前の待った無しの状況でとにかく毎日することもたくさん、思うこともたくさん、立ち止まって考えたいこともたくさんあるが、結構いろんなものを後回しにして生きている。目の前の人への深い責任感からそうせざるをえない。

制度を利用するというのは、そういう諸々考えないといけないことを整理できるようにも思える。便利だ。しかし制度に委ねすぎてしまうと、レールにのったような生活になりがちである。制度を使う人の力量によるのだ。制度はそういうもので、この複雑奇怪な生活が制度そのものによって幸せになることはほとんどない。使う人に期待して制度はできている、と思う。

認知症になれば、初期の介護保険を使わない間は自宅でがんばる、しかし、なかなか外に出ていけないので、認知症の人のためのカフェとかにいけば、認知症の人が来てもこまらないような楽しいイベントもあるよ、と。空白の期間を充実して生きられるように。介護保険を使えるようになると最初は作業重視のデイサービスにいって、孤立しないように、たまにカフェにいったり、認知症の人たちが集まるイベントにいって楽しくすれば、、、進んできたら違うタイプのデイサービスにいって、自宅がだめなら施設に、、そうやって生きることがなんとなく暗黙の了解のように感じて、本人も家族も周りの専門職もそう思っているところが少なからずあるだろう。制度が行き届いていて、自由に生きるということのイメージが画一化してしまっている。考えて個々の自由にその都度対応するより楽なのである。当事者すらも説明やわかってもらうのに骨が折れるので、ほとんどの人が声をあげることはない。自分の人生、思うように生きたい、でも自分でもだんだんうまくいかなくなることに落胆するので前向きな気持ちとバランスが難しい、周りの人に遠慮しながらいくのはいやだけど仕方ない、、、

自分の生きたいように生きる、そのために自分で考えるということの自由を大事にすることは人の生活に関わるものとしては当然だろう。それが病気のせいで徐々にうまくいかなくなったとしても、これでよいと思いこまないということはケアする側は必要だろう。その人の生活までもこれでいいのだと思って関わるのと、これでいいのかな、わからないけど、よりよくなるように他のやり方もあるかもしれないと思って関わるのでは、同じ場面でも全然違う。

病気でなくても人は自分のイメージの範疇で相手に期待して生きており、相手にも自分の期待通りに生きて欲しいと思う。知らない間に、人は人に期待のレールに乗ってほしいと思っている。そんな中で個々がすきなように生きるということは、本当に難しい。なんとなく期待にこたえなければ、それはそれでこまるということもあり、全くのしがらみなく生きるというのはなかなか旅人でもなければ難しい。旅人でも難しいかも。

人の生活はその人のものだ。そこにしがらみもあるかもしれないが、社会で生きる以上、そのしがらみとどの程度付き合うかもその人の自由である。考えれば当たり前のことだが、それぞれの人の生活は自由であるということをかなり肝に銘じないと、制度に流されてしまう。自由な生活、できるだけその自由度をひろげる選択肢を準備したりすることもイメージしないといけない。ケア側は無限にある相手の生活の広がりのイメージをできるだけ相手と共有できるようにしないといけない。そこには生活を阻害するものや気持ちを理解するという能力を培えること、自由な生活を実現する選択肢を沢山提示でき選べるようにサポートできることが欠かせない。その2つしかすることはない。明確すぎるミッションだ。あ、もう1つ、それができないならせめて、自由を奪うような発言、態度はとらないことだ。当たり前すぎるけど。

 

Living without memories

“We’ll always have Paris”

This is a line in the last scene of the famous movie ‘Casablanca’.

Human being is a weak creature and always needs somebody in front of himself to hold on. People cannot endure loneliness even though he has a beautiful memory like Paris. How about dementia people with memory loss?They may become loneliness gradually even though their family and friends are close to them.So I always want to smile them as much as possible to keep them comfortable. To think of the days long past or think back to their childhood in peace.By the way, the process of death is also loneliness as well. But they have their own memories. How about dementia people when they die? Without memories, they might die of too lonely.So we always create human environments for their peaceful mind. It’s essential for professionals who do their best to guess feelings of people with dementia to be with them until the end of life. But the most wonderful person is the person with dementia who can accept the professionals.

To a beautiful lady, who entered eternity nobly although it was long long illness.

俺たちには思い出のパリがある。

カサブランカのラストシーンでのセリフである。

本当に思い出だけで生きていけるのか。人は弱い生き物で、目の前の人にすがりたくなる。美しい思い出があっても孤独に耐えられない。 記憶障害のある認知症の人はどうか。たぶん、目の前に家族や友人がいても徐々に孤独になるのかもしれない。そうならないように、遠い昔、子供時代に思いを馳せられるように、できるだけ彼らには笑顔を向けていたいと思う。死にゆく人もおそらく同じように孤独なのかもしれない。でも思い出があるからまだ大丈夫なのかもしれない。認知症の人が死にゆくときはどうか。思い出がなければ、さみしさで死んでしまうのではないか。だから、さみしくないような環境を人によってつくりたい。最期の時までずっと傍にいて、決して完全には分からないその人たちの気持ちを推し量るのにベストを尽くす人たちの存在は不可欠と思う。でも、一番素晴らしいのはそれを受け入れてくれるその人だ。

長い闘病生活だったけど、本当に立派に旅立った彼女に。

 

 

 

10年

認知症疾患になって、いろいろあって、なぜかうまくいかなくて、ものすごいプライドが傷ついて、自分なんて何の価値もないという気持ちと慟哭を秘めて、何が何だかわけがわからずにここにやってくる。ここはいわゆる認知症治療病棟である。みんながここに来るのを病気の本人も周りも、全く関係ない人も、嫌がる病棟である。でも、ここA3病棟はそこに抗って、とにかく本人を混乱させている環境を整えて、笑顔でできるだけ早く帰ってもらうようにメンバーが全力でケアに当たっているところである。

私がこの病棟にきて10年たった。最初は研究のデータ収集、でもデータ収集が終わっても、ここにいた。そうやっている内に、ここにいる患者さんとスタッフメンバーに何か、なんでもいいから貢献したいと思うようになった。そうこうしているうちに、口腔ケアリハチーム、認知症の症状による暴力行為、排泄、食事、認知症のクリニカルパス、若年認知症のグループワーク、、、いろんなことをスタッフと一緒に考えるようになった。あまりにも辛い患者さんの運命に、一番悔しいのは本人なのに、こっちの方が先に打ちひしがれてしまったりしたこともあった。でも、みんな明るく困ったときこそもう一度患者さんを観るということを繰り返してしてきた。そして思いつく限りのアイデアを出して実践してきた。

もともと認知症疾患にも老年にも、看護にも興味なかった私が、こうしていることに驚きつつ、必然とも思える。この病棟に出会わせてくれたのも、今までの人生のどれか1つでも違ったら出会えなかった。人生はトレードオフだ。でもこれで良かった。これしかなかった。

気づけば10年経った。みんなで越えてきたいろんなことがつながりつつある。これから10年はどうなるのか。生活支援には終わりはないがだからこそ1つ1つ丁寧にしているみんなを本当に尊敬している。私は私のポジションや境遇を最大限使ってみんなを盛り立てることだ。それこそが私がやりたかったことなのだと、思い返すことができた。それが患者さんへの貢献とおもっている。

これからの10年もこの日本一の病棟のために生きていきたい。

Thanks, my mentors

Fortunately, I have many mentors, nurses in dementia care unit, nursing administrators, a professor of nuclear physics, a respectable researcher and great lady. They all are very energetic, sincere, belief and always give big motivation to me. I can confirm whether a direction of my work is correct and what to do during talking to the mentors.

The other day, it’s long time no see one of my mentions, great lady, who is 88 years old. She has had incredible experiences, for example care giving to her husband who had PSP at home for more than 10 years. She also has great carrier as an excellent editor in a famous publisher. Just  her life probably had lots of ups and downs. But she got through the challenges positively, additionally gives many suggestions of better nursing care and health care systems to us according to her experiences. I am always encouraged and reconsidered my life by her such as attitude. How sad and disappointed?! I can’t share her feelings easily.

When I see her, I always think that I want to be like her. Life is unexpectable and challenging but I want to be stronger to get over a difficulty one by one.

私にはたくさんのメンターがいる。日常的に会う人、時々会う人、もう二度と会えない人、いろいろだ。分野も歳も経歴もいろいろ。

先日、久しぶりに90歳近いメンターに会った。最近少し身体を壊したそうだが、見事に復活されていて、相変わらずのシャープさで、私を励ましてくれた。自分が、高齢者ケアを専門としているからというわけではないと思うが、彼女の人生は波瀾万丈だ。長いからというわけではないと思う。彼女がグレイトな理由はいつも自分の体験を客観視して、そこに将来的な期待感をもって、生産的な方向に進めようというところだ。単なる昔話でも苦労話でもない。こっちが想像もできない人生の荒波を時間が経っても生き生きとした言葉で語り、苦労を改善するための生き方に変えている。人生は予想もつかないことばかりだが、彼女のように良いことも悪いことも自分の力に変えて、自分の今のミッションを遂げていきたい。

 

 

 

 

 

公私混同

介護現場とか、人の生死、泥臭い生活の中で、多職種が関わると必ずと言っていいほど陥る逆グループダイナミクスがある。愚痴である。

同業者の愚痴、他職種への愚痴、愚痴をいうことや自分の思い通りにいかない人を悪くいうことで、同じことを思っている人の深層心理の中で共鳴するのを期待しているのか、人は愚痴をいってスッキリする下衆な動物である。なんなら、人を貶めて満足するような下衆を通り越して、なんていうんだろう、とにかく面倒極まりない動物になる。

愚痴もそのあときちんとした方向性を示すことができ、関係者を生産的な状態に導くことができれば、もはや愚痴ではなく、ディベートでありディスカッションである。そして愚痴をきちんと本人に感情を伴わずに伝えると、愚痴ではなく意見交換になる。

チームケアをするときの最低限の礼儀として、チーム内の愚痴をいわないということがある。そして、どんなに相容れない意見の持ち主も仕事を離れたらなんてことない普通の人間関係がある。

昔、新卒で就職した組織は保守的だったので、問題解決型思考の私には上司のいうことが理解できず毎日文句をいっていた。でもある日先輩が、どんなに仕事で嫌な人とでもご飯に行けるというくらいドライに仕事では関わること、ネガティブな公私混同するなと教えてくれた。

それはきちんと話を聴くようになり、聴ける人になるという意味がある。客観性を持てるかどうかである。医療職として一番必要な基本である。他職種との関わりのなかで、自分の本来の仕事の役割を果たしているか、セルフモニタリングが絶対に必要だろう。その中でも公私混同はしてはいけない。

 

 

そのうち廃業することへの期待

自分の仕事が不要だとわかったらどうするだろうか。大抵の人はそう思いたくないので、自分の仕事になんらかの価値を持ちたいと思う。それができない人は違うところに価値を見出す。そういう場合、たまに仕事ではなく自分の存在価値になる。仕事と自分の関係性についてはここでは省くが、仕事は自分の価値を認識する大きな要素であることは間違いない。

私は、認知症のケアが専門だと看板を掲げているが、認知症に多少の愛着はあるものの、別に好きでもなければ、特別視することもない。進行性の慢性疾患である。興味があるのは、治せませんと言われた病気、しかも進行性なので本当に日々受け入れないといけないことがある中で、どうやって病気と付き合えばこれまでと似た様な生活が送れるのかに興味がある。病気のせいにしたくないし、病気の人を可哀想だとも思いたくないからだ。当然認知症の人の一見??な行動も単に病気の1つの症状にすぎない。それだけなのにやたらとその人を尊重しようということが取り沙汰されているのは、認知症を特別扱いしてほしいのか、病気があるだけで人を尊重できないほどもともと民度が低いのか。

話が脱線した。認知症ケアが専門だが、そのうち廃業したら良いと思っている。地域に出ると本当に頑張ってサポートしている人がいて、知識だけの私は圧倒されてしまう活動をして成果を上げている。こういう人がたくさんいたら、今の問題も大したことないのにと思って、認知症ケアに私の出る幕はないねと思いもしたが、いろいろ突き詰めるとまだ課題はあった。だからそれが解決できるまではやりつづける。認知症ケアなんてもう問題ではないさ、あんた何してんの?もう用無しですよといわれる日がくることを本気で願っている。しかし、私も下衆な人間なのでなにかしら貢献できたらイイなーくらい思っている。しかし、やはり、早く廃業する日がくるのを願っているほうが強い。

廃業したら、また別のことを見つけてそれの解決に向け必死でするのだろう。その繰り返しだ。別のことだとしてもそれまでの経験は積み上がる。自分の仕事や価値がなくなるなんていう恐怖もない。きちんと現象を客観的にみると意外と物事は自分がいなくてもすすむ。何が必要か、何が貢献できるのかということをきちんとわかって、無理無理自分の価値を高めようとしなければ、何コレ?っていう学者の道楽のような研究結果は減るんじゃないか。マイナーでもメジャーでも、これが世間にこのように貢献するのだと素人にもわかるように明確に説明できるということが大事だ。それが抜けていたら、メソドロジーがいくら良くても、結局何コレ?レベルである。誰が使うの?この尺度、とか。尺度に罪はないが、どんなにマニアックでもよいから、研究者や業者以外の関係者に役に立つときちんと説明してほしい。

抄読会で読む論文、査読で回ってきた論文をみるにつけ、そういう気持ちが増大して仕方ないのでこういう文書を書くに至った。しかし、論文にすらなってない研究もある。論文でなくても世間がそんなこと知らないというような闇に葬られた研究も山ほどある。発信しなくてはいけない。発信するには、役に立つといえるものでないといけない。

 

 

看護かんごカンゴカイゴ

患者さんに寄り添って、丁寧に、優しく、いつも笑顔で。心に寄り添うカンゴをしたいのです。

寄り添う気持ちを持つなんて、当たり前のことで、丁寧になんて人として当然。優しく?怒る筋合いもない。仕事の対象者に怒ったり、注意することがまあなんとなく忙しいもんね、と黙認されてるのはカンゴ、カイゴくらいか。毎度ニュースになる高齢者施設や病院の虐待事例の記事は、カイゴ職は多忙でストレスを抱えて、、、という誰のせいでもないような結論でおわる。いやいや、虐待したその人が100パーセント、1000パーセント悪いでしょ。個人の問題でしょ。それを社会的問題にすり替えるのは筋違い。カンゴやカイゴの給料が安いのは、自分たちで自分たちの仕事の成果や価値をきちんと他業種にわかるように評価することを怠ってきたため。保険制度の中でしか生きられないように自分たちで仕向けている。

高齢者ケアの最初のスタートラインのレベルが、虐待なんてしないで心に寄り添うとかそういう低すぎるものなので、ちっとも盤石のスキルができないし、浸透しない。カンゴは一体いつまで心に寄り添うことばかりにフォーカスあててるんだろう。そんなこと当たり前に保障される上に、スキルと専門家のアセスメントを積み上げないと、そのうち不要なライセンスになる。高齢者ケアだと本当に積み上げられたものは少なかったりする。とにかく危機感を募らせるばかりだ。はやくしなければ。